天下一のグルメ武将は伊達政宗?伊達政宗の食べ物にまつわるエピソードを紹介!

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伊達政宗には食べ物にまつわるエピソードが数多く残っていると言われています。伊達政宗自身もグルメだったのでしょうが、仙台藩を治める領主として、領民たちのために食に関する研究をしていた部分もあったようです。そんな伊達政宗のグルメな逸話や食べ物にまつわる話を集めてみましたので紹介します!

伊達政宗とは

伊達政宗は東北奥州に生まれた武将で、幼名は梵天丸といいます。伊達政宗といえば隻眼というイメージを持つ人も多いと思いますが、これは幼少期に患った疱瘡によって失明したために片目を失ったということのようです。伊達政宗の異名としては「独眼竜」というのがあるのもそのためです。

伊達政宗が誕生したのは、現在の山形県米沢市の米沢城だったようです。父は伊達輝宗、母は最上義光の妹である義姫です。伊達政宗は15歳頃から父の代理として周辺諸国との外交を行っていたとされ、18歳の時に父の隠居に伴い、伊達家の家督を継ぎました。

時は戦国時代ということもあり、伊達家も難しい舵取りを迫られることが幾度もあったようです。特に関ヶ原の合戦では、それまで豊臣方についていたのを徳川方に鞍替えし、徳川家康の味方として戦い、最終的に伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生することになりました。石高は62万石で、加賀、薩摩につぐ第3位の規模だったようです。

仙台味噌は伊達政宗がルーツ?

仙台には現在も美味しいものがたくさんあります。その中には独特の文化の中で育まれたものも多く、ルーツをたどると伊達政宗に行き着くものもいくつかあります。そのひとつが「仙台味噌」です。「仙台味噌」といえば、赤味噌の代表格として、現在も多くの人に愛される味噌でもあります。

この「仙台味噌」ですが、豊臣秀吉の命令によって朝鮮出兵した際に、他の藩の味噌はすべて変質してしまったものの、伊達政宗らが持参した味噌だけは変質しなかったのだとか。このため、伊達家の味噌は質が良いという評判が広がったのだそうです。

さらに伊達政宗は、江戸時代に入ると、この味噌を大量生産する体制を整えます。江戸に仙台から大豆と米を船を使って運び、江戸に七箇所あったとされる仙台藩邸でそれぞれ作られることになったようです。その作られた味噌は江戸の人たちにも売られ、仙台味噌は江戸の人たちの間にも広がっていったのだそうです。

伊達巻きと伊達政宗の関係は?

他にも、伊達政宗と関係のありそうな食べ物が「伊達巻き」です。伊達巻きといえば、おせち料理の定番でもありますが、この伊達巻きは伊達政宗と何か関わりがあるのでしょうか?

伊達政宗は自ら料理をすることもあったという逸話がありますが、「伊達巻き」のルーツともいえそうな「平玉子焼き」というものも作っていたのだとか。この「平玉子焼き」はヒラメのすり身にた卵を混ぜて焼いたものだそうで、これを「伊達焼き」というようになったのだとか。さらに、この「伊達焼き」と巻いたものを「伊達巻き」と呼ぶようになったのだそうです。

現在の「伊達巻き」は、魚や海老のすり身に砂糖などを混ぜて作っていますが、この「伊達巻き」のルーツが伊達政宗もこよなく愛した「伊達焼き」であることは間違いなさそうです。

おせち料理にも伊達政宗流のこだわりが

伊達政宗は自らも厨房に立って料理をするという武将でしたので、お正月のおせち料理に対するこだわりもひと一倍あったと言われています。現代でもおせち料理といえば、主婦が三日間料理をしなくて済むようにということで、かなりの品数があるのはご存知の通りです。

しかし、伊達政宗のおせち料理は、全品目をあわせると60種類以上あったと言われています。中には、仙台では取れないような伊勢エビなどというものもあり、おせち料理のために、わざわざ取り寄せたものと考えられています。

他にも伊達政宗のおせち料理には、カラスミなどという珍味やクジラの肉、さらには白鳥などというものまであったようです。

日頃は質素な食事をしていた伊達政宗

おせち料理はかなり豪華だった伊達政宗ですが、日頃の食事は質素なものだったと言われています。日々の食事の献立も、伊達政宗自身が考えることがあったそうで、朝の2時間ほどはその献立を考えるのに時間を費やしていたという逸話もあるのだとか。

伊達政宗は「たとえ食事がまずくても褒めて食べなさい」という名言を残していますが、これも自身が料理をするからこそ出てきた言葉と言えるのかもしれません。

伊達政宗はハレとケを使い分けるグルメ武将だった

伊達政宗の食べ物にまつわるエピソードについて紹介してきました。伊達政宗がルーツとされる食べ物は数多くあり、今回紹介しなかったものとして「ずんだ餅」などもあります。こうしたものは伊達政宗が「兵糧」として編み出したものも多く、戦をするにあたっていかに食事が大切かということを、伊達政宗がよく心得ていた証といえるのかもしれません。