柴田勝家の初婚の相手はお市の方!お市の方との夫婦仲は?二人の結婚の経緯についても調査!

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お市の方といえば、織田信長の妹として知られていますが、実は柴田勝家の初婚の相手がお市の方なのです。お市の方はもともとは別の武将に嫁ぎますが、夫と死別していました。お市の方を娶った柴田勝家はどのような気持ちがあったのでしょうか?また、周囲はどのような思惑で柴田勝家とお市の方を結婚させたのでしょう?柴田勝家とお市の方の結婚について紹介します!

柴田勝家とは

柴田勝家といえば、織田信長の家臣として知られていますが、もともとは織田信長の弟の信行の家臣でもありました。ただ、信長と信行が対立を深めていく中で、柴田勝家は織田信長への臣従を誓います。もともとが信行の家臣だったということもあり、柴田勝家は当初は大切な戦などにも同行を許されなかったとされています。

しかし、もともと優秀な武将であったことから、柴田勝家は徐々に信長の信頼を得ていきます。豊臣秀吉が一時期「羽柴秀吉」を名乗っていたことがありますが、この「羽柴」の「柴」は柴田勝家から一文字をとったとされています。当時の織田家は柴田勝家、丹羽長秀の二人が重鎮として信長の信頼を得ており、織田家の家臣代表のような立場だったようです。

織田信長が本能寺の変で死亡したとき、柴田勝家は魚津城・松倉城の攻略の最中でした。信長が死亡した2日後に城は墜ちますが、まだ柴田勝家は信長の死を知らなかったといいます。当時は交通手段も連絡手段も限られていたため、本能寺のある京から遠く離れた魚津(現富山県)にいた勝家に信長の死が知らされたのは、さらに数日が経ってからだとされています。

この数日の遅れが災いし、中国地方から大返しを行った豊臣秀吉に、柴田勝家は出遅れてしまいます。そのうえに本能寺の変を先に知った上杉方に攻撃を仕掛けられるなどし、柴田勝家がようやく京に戻る頃にはすでに秀吉が明智光秀を討った後だったそうです。この主君の仇討ちを逃したことも、清洲会議で秀吉が推す三法師が信長の後継に決まってしまった理由のひとつでもあると言われています。

柴田勝家の初婚の相手はお市の方

柴田勝家の初婚は60歳頃と言われています。それまでの柴田勝家には結婚歴はなく、戦国時代の武将にしては珍しく独身だったようです。柴田勝家は織田家の重鎮でもあり、おそらく織田信長も縁談をすすめるなどしていたことは予想されますが、柴田勝家には60歳まで結婚する意思がなかったのかもしれません。

そんな柴田勝家の初婚の相手となったのが、織田信長の妹とされるお市の方です。柴田勝家にとってはお市の方が初婚でしたが、お市の方にとって柴田勝家は初婚ではありませんでした。実はお市の方は政略結婚で近江の武将・浅井長政の元に嫁いでいたことがありました。浅井長政とお市の方の夫婦仲はとても良く、二人の間には三人の娘が生まれました。これが茶々、初、江で、この三人は戦国時代末期から江戸時代の歴史に深く関わっていくことになります。

夫婦仲むつまじかったお市の方と浅井長政ですが、姉川の戦いで破れ、城を攻められてしまいます。その際にお市の方と娘たちは織田家の武将によって救出され、浅井長政は自害しました。

柴田勝家とお市の方の結婚は清洲会議で決まった?

浅井長政の死後は織田家に引き取られ、娘達を養育していたお市の方ですが、織田信長が死去し、今後の面倒を誰が見るのかということが問題になっていたようです。ちょうどそんな時に、織田家の跡目を決める清洲会議が行われていました。

本能寺の変では信長ばかりではなく、嫡男の信忠も死亡してしまったために、織田家の家督は宙に浮いた状態になっていたのです。そのため、織田家の重臣が集まり、誰が織田家の家督を継ぐのかということを多数決で決めることになっていました。

この清洲会議の結果で、柴田勝家の推した信長の三男・信孝は家督を継ぐことはできず、豊臣秀吉の推した織田信長の嫡孫・三法師が家督を継ぐことになりました。この結果に当然、柴田勝家は不服を申し立てたようで、それを宥めるための方策として、豊臣秀吉はお市の方との結婚を提案したようです。柴田勝家は密かにお市の方に恋心を抱いていたというような俗説もあるようです。

柴田勝家とお市の方の夫婦仲は?

お市の方にとっては、柴田勝家との再婚も政略結婚のようなものでした。この時代の女性は、自由に結婚相手を選ぶことはできませんが、お市の方は特に悲劇の姫として後世に語り継がれています。

ただ、柴田勝家とお市の方の夫婦仲は悪くなかったという説もあるようです。これも俗説ですが、後に柴田勝家が豊臣秀吉に対して挙兵したのは、お市の方の意思もあったのではないかという話もあるそうです。

というのも、お市の方の前の夫である浅井長政の居城である小谷城の一番手柄は豊臣秀吉で、これにより浅井長政は自害してしまいます。その後、小谷城は豊臣秀吉に信長から報償として与えられたのだとか。ですので、お市の方はかねてより豊臣秀吉を恨んでおり、豊臣秀吉と敵対し、倒すことが可能な柴田勝家に嫁いだのではないかとも言われています。

結婚から僅か半年で柴田勝家はお市の方とともに自害

柴田勝家とお市の方が結婚して僅か半年後、柴田勝家は豊臣秀吉の領地に向けて挙兵します。清洲会議では円満に話し合いもまとまったように見えていましたが、その後すぐに織田家の内部では権力を巡って争いが起きており、柴田勝家も滝川一益、織田信孝などを味方に付けて秀吉との争いを繰り広げていました。そして、姉川の戦いへと繋がっていくのです。

姉川の戦いで敗れた柴田勝家は居城の北ノ庄城に戻りますが、そこも秀吉の軍勢によって取り囲まれます。北ノ庄城にはお市の方もいましたが、柴田勝家が逃げるように説得したもののこれを拒絶し、夫の柴田勝家とともに自害する道を選びました。その理由としては、前夫である浅井長政の時にも生き延びて今度もという気持ちにはなれないというものだったそうです。

お市の方の辞世の句は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」で、「夏の夜のほととぎすの泣き声が、別れの悲しさを誘っているように聞こえる」という意味です。また、柴田勝家の辞世のの句にもほととぎすが登場します。「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公」が柴田勝家の辞世の句で、意味は「夏の夜のように短い私の名を、後の夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす」というものです。

柴田勝家とお市の方の新婚生活は僅か半年だった

柴田勝家とお市の方の結婚について紹介してきました。柴田勝家にとっては60歳にしての初婚の相手がお市の方でしたが、お市の方にとっては再婚相手であるという少し複雑な結婚でした。そして、柴田勝家とお市の方の新婚生活は半年足らずで終わってしまい、二人は城を攻められ、自害して死んでしまいます。ただ、柴田勝家とお市の方の夫婦仲は良かったとも言われており、辞世の句にもその一端が現れているのかもしれません。