明智光秀の本能寺の変はおみくじで決まった?明智光秀とおみくじの関係を調査!

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明智光秀はどんな人?

明智光秀といえば、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」が話題になっています。「麒麟がくる」では長谷川博己さんが明智光秀を演じるそうですが、この明智光秀は実は織田信長の正妻である濃姫の従姉妹であるという話もあります。つまり、斎藤道三の正妻の娘が濃姫で、明智光秀はこの斎藤道三の正妻が叔母であったという可能性があるのだとか。そのため、明智光秀は若い頃、斎藤道三に仕えていたことがあったという説もあるそうです。

明智光秀は武も智も優れた希有な武将と呼ばれており、特に鉄砲の扱いに長けていたという話もあります。織田信長が戦国時代の早いうちから鉄砲を導入していたのは有名な話ですが、そこにも明智光秀の活躍があった可能性があります。ただ、キリスト教の宣教師などの明智光秀評は大変厳しかったようで、「狡猾」と言われたり「裏切りや密会を好む」などと本能寺の変の以前から報告書などに書かれていたようです。

また、明智光秀の家系は非常に美形だったとも言われています。明智光秀自身がかなりの美男子だったという情報もありますが、その娘の珠姫はさらに美しかったと言われています。珠姫は細川忠興の元に嫁ぎますが、細川忠興はこの美しい妻を非常に大切に囲っていたようです。さらに細川忠興は嫉妬深い武将だったようで、珠姫を見たというだけで部下を手討ちにしてしまったというエピソードも有名です。

本能寺の変とは?

本能寺の変は日本史の中でもかなり有名な出来事ではありますが、これが起こった場所は京都にある本能寺というお寺でした。当時、織田信長の部下たちは、天下統一を目前にして全国各地に散らばっていて、実質的に京都に近い場所に残っていたのは明智光秀の軍だけだったという説もあるようです。織田信長は天正10(1582)年6月2日に京都にいましたが、この時にはごく僅かな手勢程度の部下しか連れていなかったとも言われています。ただ、周囲に信長の息子の信忠などは宿泊していました。

明智光秀は中国で戦っていた豊臣秀吉の援軍に向かうように織田信長から命じられ、自身の軍を引き連れていったんは中国に向かおうとしました。しかし、中国には向かわず、途中で方向を変えて京都に入り、そこで「織田信長を討て」とは言わず「敵は本能寺にいる!」とだけ言って部下たちを本能寺に突撃させたのだそうです。有名な「敵は本能寺にあり!」の台詞は、織田信長を討つとは部下たちには知らせず、ただ敵が本能寺にいるとだけ告げ、本能寺を攻めさせた光秀の知略だったという説もあるようです。

この本能寺の変によって急襲を受けた織田信長は、本能寺に火を放って自害したとも言われています。森蘭丸などの小姓たちも、最期まで信長を守って戦ったそうです。この時、近くにいた織田信長の長男の織田信忠も明智光秀の軍に攻められて自害をしています。

明智光秀が本能寺の変を企てた理由

明智光秀が本能寺の変を企てた理由については、現在に置いてもミステリーな部分が多いと言われています。単純に明智光秀の野心というものもありますが、織田信長から疎まれ始めたことが原因ではないかというものもあります。この時期の明智光秀の立場というのは非常に微妙なものだったようで、織田信長に重用されているように見えて、実は厄介払いのような扱いを受けていたという説もあるようです。

明智光秀自身の純粋な野心による説が少ないのには、織田信長の小姓・森蘭丸の証言が残っているところも大きいかもしれません。森蘭丸は本能寺の変が起こる前に明智光秀がご飯をぼろぼろと零しながら食べているのを見たのだそうです。それで良からぬ事を企んでいるかもしれないと考え、織田信長に報告したそうですが、信長はその報告を一笑に付したと言われています。

織田信長自身は、明智光秀が謀反を企んでいるなどとはあまり考えていなかったようで、信長自身は明智光秀に対してその処遇を悪くしているなどの自覚はなかったのかもしれません。

明智光秀は最後まで迷っていた?

明智光秀は本能寺の変を起こすことを最後まで迷っていたのではないかと言われています。本能寺の変の数日前には愛宕神社で開かれた連歌の会に光秀は出席していますが、この時に作った歌「ときは今 天が下知る 五月哉」が謀反を匂わせるものだったという説もあるそうです。この連歌の会で宿泊したとき、光秀は夜はほとんど眠らずにため息ばかりついていたという話も残っているそうです。

明智光秀を決意させたおみくじ

明智光秀が本能寺の変を起こすのを迷っていたのではないかという説を裏付ける話が、愛宕神社でのおみくじの話になります。明智光秀は本能寺の変の5日ほど前に、思うところがあって愛宕神社のおみじくをひいたと言われています。ただ、一度目、二度目は「凶」が出たために光秀は三度おみくじをひいたのだとか。この三度目が「大吉」だったために、本能寺の変を起こすことを決意したのではないかという話が残っているそうです。

しかしこの説には異論もあるようで、現代ではおみくじは通常は一度ひいたら終わりということになっていますが、戦国時代の頃は幾度かひいてその結果を見て占うということもしていたそうです。

明智光秀がおみくじをひいた愛宕神社

明智光秀がおみくじをひいたという愛宕神社ですが、現在も存在しています。愛宕神社は京都府京都市右京区にある神社で、全国に約900社ある愛宕神社の総本社でもあります。愛宕神社は標高924mの愛宕山の頂上にあるあめに、参拝するには登山をする必要があるそうです。過去にはケーブルカーなどがあったそうですが、現在はそうしたものはなく、休憩施設や茶店のようなものもないようです。愛宕神社へ行くにはいくつかのルートがあるようですが、どのルートを通っても50分から2時間ほどかかってしまうようです。参拝する際には飲み物や靴などの準備をしっかりとしてから行ったほうが良いでしょう。

本能寺の変には今も謎が多い

明智光秀が主君織田信長に対して起こした日本史の中でも最大規模の謀反が本能寺の変ですが、そもそもの光秀の動機など、現在も多くの謎に包まれています。この本能寺の変で織田信長が死んだとされていますが、その遺体も見つかっていないと言われています。明智光秀の天下が僅か3日で終わったのも、織田信長の首を見つけることができなかったからという説もあるのだとか。戦国時代最大のミステリーともいえる本能寺の変は、これからも多くの歴史愛好家を惹きつけてやまないでしょう。